スピリチュアル向けのブログを開設しようかな…

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昨日の記事「アワセカガミ」を書いていて思った。

いわゆるスピリチュアルと言われるような内容のことって筆が進むなぁ、と。

 

あの記事はスピリチュアルではないんだけど、内面の話、心の話だから近いことは近い。

 

小さな頃から

「自分はどうして生まれてきたのだろう」

「なぜ〇〇という名の人間になったのだろう」

なんてことを考えるような変わった子どもだった。

 

だれでも少しは考えることはあるだろうが、僕は割といつも考えていた。

 

なんてことない日常の風景に、突然、得も言えぬ幸福感を感じたり、その幸福感に罪悪感を感じたり。

 

人の一生を考えて、ただ勉強を頑張って社会に出て、生きていくために身を粉にして働いて、やがて死んでいく。

 

「ほとんどの時間を勉強や仕事に費やす人生ってどうなの?」

なんてことを考えていた。

 

振り返ってみれば、心を観察し続けて、座禅で心を開放していって、とスピリチュアルなことに関してはエキスパートかもしれない。

 

だから、スピリチュアル界隈に雨後の筍のように現れるグル的な人物が、本物かたいしたことないのかエセなのかだいたい見抜ける。

 

パワースポットもパワーグッズも通った道。

良いものは少なく悪いものが多いのも知っている。

 

幽霊から波動、気功、瞑想からホメオパシーまで、スピリチュアル関係は一家言あるから、スラスラ記事がかけるんだな。

 

仕事に関連する記事とかでもこうは行かない。

 

世にエセスピリチュアルにだまされる人が多いから、そのジャンルのブログを始めるのもいいかもしれない。

アワセカガミ

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 小さい頃に家に三面鏡があった。

サイドの鏡を向かい合わせると、自分の姿が無限の彼方まで連なっているのが見えてとても不思議だった。

遠くの方へ行けば行くほど暗い鏡像でなんか恐ろしくも感じたものだ。

 

その神秘さが手伝って、あわせ鏡にまつわる都市伝説は洋の東西を問わずたくさんある。

 

午前0時にあわせ鏡をすると霊が映るとか、呪文を唱えると悪魔が現れるとかが有名。

 

もう一つ有名な都市伝説に過去と未来の自分が見えるというのがある。

午前2時にやると未来の自分が自分に話しかけてくるとか。

 

まあこれは完全な眉唾だけど、あわせ鏡に無限に連なる自分の姿というのは、本当の自分の姿ととても似通ったものがある点は当たっている。

 

話は変わるが、座禅や瞑想をしていると過去や未来が存在しなくて、今しかないことが腑に落ちてくる。

これは概念や言葉遊びではないので、頭で理解できることではなく、体感として感じること。

 

時間は常に今の連続でしかなく、過去は記憶の中にしかない。

いや、記憶の中というのは語弊があるな。

今の自分の記憶から再構成された虚像でしかない。

 

記憶にリンクされた感情によってかなりデフォルメされているし、そもそも記憶自体あいまいなもので、偽の出来事が後で付け足されたりする。

同じ出来事の記憶が人によって全然違ったりするのはよくあることだ。

だから、過去というのは実際に起きた出来事とは似て非なるもの。

 

じゃあ未来は?

未来もやはりない。

 

頭の中に描く未来は過去の経験をもとに将来こうなるんじゃないかという、都合のいい解釈や勝手な不安を投影したもの。

 

あるのは今だけ。

過去も未来も心の産物だ。

 

だけど厄介なのはどちらも今に影響を与えること。

 

過去は今の行動に影響する。

例えば、過去に気まずくなった人とは今も付き合いにくい。

でもその過去は自分の中で勝手に作り出したもので、相手は気まずいなんて微塵も思っていなかったりする。

 

一方、未来は将来へ向かっての自分の行動に影響する。

希望を失って悲観的な未来しか描けないなら、それは今の選択を「どうせ~だから」という投げやりな判断でしてしまう。

結果として思っていた未来に近い状態に近づいていく。

 

この過去と未来、変えることができる。

 

すでに起こった過去は捉え方で変わってくる。

あの時、嫌味を言われて気まずくなったと思い込んでいたことも、自分のことを思って言ってくれたことだとか口は悪いけれど根はいい人と捉えれば描かれる過去は変わる。

 

悲観的な未来も、それを避けるためには、今、何をするべきかにフォーカスして行動すると、実際にやってくる未来も全然別のものになっている。

これは「思いは実現する」「引き寄せの法則」と同じことで、見方の違いに過ぎない。

 

で、話をあわせ鏡に戻す。

この今と過去と未来の関係は、あわせ鏡に映った無限に続く自分の姿だということ。

 

リアルの自分(今)が動けば、左右に映る鏡像(過去と未来)は同時に変化する。

 

今の自分が変れば人生が変わるというのはこういうこと。

今の行動を変えるだけで一瞬にして変わる。

新しい一歩を踏み出すことは勇気のいることだけど、その一歩を出すか出さないかが人生の分岐路だ。

 

過去も未来もひっくるめて人生を変えるために一歩を踏み出すのは

「今でしょ」by 林修

 

自戒を込めたお話でした。

お酒に人生奪われていない?

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 僕はお酒を飲まない。

決して体質的にお酒が飲めないわけではない。

 

以前は毎日のように飲んでいた。

あの酔った感じは嫌いではない。

体がふわふわして、些細なことがどうでも良くなってしまい、気がとても大きくなる。

 

人によって泣き上戸や怒り上戸など色々あるが、少なくとも僕の場合は楽しい酒だ。

 

それがある日を境にピタッと止めてしまったのだ。

 

ストレスの多い日常を過ごしていたのなら、お酒はちょっとしたガス抜きになっていいのかもしれない。

 

だけど、座禅を続けているとそもそも些細なことが普段から気にならなくなる。

ぐちもあまりでなくなるし、だんだんと今起こっていることにフォーカスが合ってきて、過去の後悔や未来の不安というのにあまり振り回されなくなるんだ。

だから、ストレスもあまり貯まらない。

 

となるとお酒の効用というのがあまり意味をなさなくなる。

 

それでもしばらくは習慣でお酒を飲んでいた。

 

ある日、自分が夜に飲む一杯のビールのために一日を過ごしている事に気づいたんだ。

その日あった出会いや出来事に対して、自分が適当になっている気がした。

いい事イヤな事ひっくるめて夜のお酒でリセットしている感じ。

日中の出来事はお酒というゴールに辿り着くまでの車窓を流れる風景に過ぎない。

 

伝わりにくいかな。

 

常にお酒を意識していて、一瞬一瞬に起こる出来事に向き合っていない。

起こったことはとりあえず箱に詰めておいて後でまとめて捨てるような感覚。

 

ただお酒のために生きているみたい。

 

実際、世の中にはそんな人は多いみたいだ。

酒を飲むだけが唯一の楽しみって人けっこういるよね。

 

でもそれってお酒に人生奪われていない?

 

お酒を飲むとその後しばらくも心が麻痺して、せっかくの生きている時間を浪費する。

二日酔いになんかなれば最悪だ。

その日、一日が無駄になる。

 

そんな事に気づいてある日お酒をピタッと止めた。

それ以来、一滴も飲んでいない。

 

お酒を止めての感想は、

「飲んでなくても全然問題ないじゃないか。」

 

むしろ以前より一瞬一瞬をよりクリアに感じられるようになった。

常にすっきり目覚めた意識で物事を感じられる。

酸いも甘いもありのままに受け止める人生。

 

ドラマ「トリック」の上田教授じゃないけど、

”ドーンとこい、人生の出来事”

という気持ちだ。

 

嫌なことがあっても引きずらなければいい。

ためてお酒でリセットするのではなく、その都度リセットするんだ。

座禅や瞑想を続ければそんな生き方が身につくよ。

 

世間ではよく「お酒飲まないなんて人生損しているよ」と言う人がいる。

それは大きな間違いだ。

 

断言しよう。

 

「お酒を飲んでいたら人生損しているよ」

 

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人間はみんな多重人格

 

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今日は人の内面のことを書いてみよう。

 

範疇としたらスピリチュアルに分類されるんだけど、スピリチュアルというのはあまりすきではない。

いいものもたくさんあるんだけど、一方で胡散臭い輩がたくさん混じっているんでね。

 

まあそれはさておき、精神障害の一つに多重人格というのがあるのを知っていると思う。

でも本来は人間は誰もが多重人格を持っていてるという話。

 

よくあるのが犯罪者の二面性

TVで犯罪のニュースがあると、犯人の近所の人や知人のインタビューがよく流れる。

たいてい

「優しそうな人だった」

「愛想よく挨拶していた」

などと言って、凶悪な犯罪を犯すような人には見えなかったという。

でも、凶悪犯罪をした人と近所から評判の良かった人は同一人物。

 

最近の話題ならピエール瀧の例が同じようなこと。

周囲の人はみんな口を揃えたようにピエール瀧のことを素晴らしい人格者だという。

(コカイン吸ったからといってそこまで悪いことだとは思わないけどね。)

この場合も罪とわかっていても薬物に手を出すピエール瀧と周りの誰からも好かれるピエール瀧は同一人物だ。

 

これらは分かりやすいが一人の人の中に2種類の人格があるという意味で多重人格だ。

 

普通の人だって多重人格

犯罪者は悪いことをする特殊な人間だから多重人格を持っているんだと考えることもできる。

だけど犯罪を犯さない普通の人だって多重人格を持っている。

 

簡単な例で言えば、ほとんどの人は家での顔と外での顔の二面性を持っているだろ。

これだって立派な多重人格。

 

さらに言えば、人格の数はもっとたくさんあって、2人なんてことはまずない。

 

例えば外向きの顔だって、仲のいいAさんに見せている顔と、生理的に合わないBさんに見せている顔は違う。

 

まあ、いい大人だったらその辺はあからさまにしないが、Bさんに対して表面を取り繕っていることが、Aさんといる時と別の人格である証拠だ。

 

意識的無意識的はあるが人をいろんな属性に分けてしまっている人ほど多数の人格を持っている。

 

精神疾患の多重人格とは出るタイミングの違い

精神疾患の多重人格は色んな人が次々に出てくるもので、ぜんぜん違うじゃないかと言うかもしれない。

でも、それはタイミングが狂っているだけ。

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それを模式図にしたのが上の画像。

普通の人は、相手の属性に合わせて出てくる人格が入れ替わる。

それに対して精神疾患の多重人格では、本来のタイミングでないところで人格が切り替わり、結果、相手が誰であれ所構わず出てくる。

統合失調症の人が妄想と現実が区別つかなくなると似ている。

 

でも、精神疾患の多重人格では各人格がそれぞれの存在に気づいていなかったりするじゃないか?と言うかもしれない。

 

じゃあ普通の人は複数の人格を持っていることにどれだけの人が気づいているんだろう。

 

だれもが知らず知らずのうちに多重人格になっているのだ。

誰に対しても分け隔てない人でも人格は2つある

世の中には誰に対しても分け隔てなく接する、”とても良くできた人”は確かにいる。

 

誰からも好かれてとても2面性なんてなさそう。

 

だけどそんな人でも最低でも2つの人格を持つ。

 

一つは”とても良くできた人”の顔。

もう一つは自分だけに見せる顔だ。

 

人間はあらゆる資質を持っているもので、悪人だっていい人の面もあるし、とても良くできた人だって悪人の芽のようなものはある。

 

素晴らしく良くできた人は何というか”良心”で人格を覆ってしまっているようなもので、他人からしたら誰にも平等に対応してくれる優しい良い人。

 

だけど自分自身は自分にも悪人の芽があることは知っている。

自分に嫌な面があるのは知っているのだ。

あるいは見ないふり知らないふりをしているかも。

 

ただしそういう人は、善と悪では善の比率が圧倒的に高い。 

人間的に進歩した人であることは間違いない。

多重人格でない人もいるにはいる

じゃあ多重人格ではない人はいないのだろうか?

実はそういう人はいるにはいる。

 

いわゆる悟りを開いた人。

 

そういう人は上に書いた人格者の2面性すら落ちてしまっている。

だから善も悪もなくなって只、今があるだけになる。

 

禅の世界では”底が抜けた”なんて言い方をしたりする。

 

人格が落ちる(あるいは自我が無くなると言ってもいい)と人間らしさが無くなるような気がするがそんなことはない。

 

そういう人はそれまでの生きてきた癖(もとの人格の癖のようなもの)は残る上、感情の表現にためらいも恥じらいも忖度もないから、表現に躊躇がなく普通の人以上に人間らしい。

 

そして今この瞬間に生き続けているので思い悩むことはなくなり、あるがままに命を輝かせる。

 

もともと座禅も瞑想もヨガもそういう境地を目指すものだ。

 

僕もそういうふうになっていきたいし、本来、みんなそういう方向に向かっている。

ただ、歩みの速度がそれぞれ異なるだけだ。

 

だいぶ人格というお面の数は減ったけれど、まだまだ道のりはつづく。

 

人は成長するにつれて多くの人格(自我)というお面を作り、やがてそのお面を一つ一つ外していくというお話でした。

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へー、猫もちゃんと言葉を聞き分けているんだ

今日、ネットニュースで見つけた記事にこんなのがあった。

www.sankei.com

 

犬派の人は、猫は呼んでも愛想がないから好きになれないようなことをいう。

 

猫を長く飼っている人ならわかると思うが、猫が名前を呼んで反応しないということはない。

傍目には、呼んでも知らんぷりで愛想がないと感じるようだが、一見愛想がないように見える猫でもちゃんと反応している。

しっぽを動かしたり、まぶたを

軽く閉じたりして、お返事してくれるのだ。

そっけないように見えてちゃんと愛情表現をしてくれる、そのツンデレ具合が猫の魅力なんだよ。

 

それを猫を飼ったことのない人や飼い始めたばかりの人は、ただ愛想がないように思ってしまうんだな。

犬のようなオーバーアクションを期待してはいけない。

 

ただ、このニュースで意外だったのが、言葉の違いをちゃんと聞き分けているということ。

 

名前を呼ぶときは、ごはんをあげる時とか、姿が見えなくて呼ぶとき、いたずらをして叱るとき。

これらは口調の優しさ強さに特徴があるので、言葉の違いではなく音の抑揚や強弱で自分に向けられた言葉であることを理解していると思っていた。

 

ところがニュースによると、ちゃんと言葉の音そのものを聞き分けているという。

同じ文字数で同じような抑揚の言葉と比較して、名前を呼ばれたときはあきらかに反応が違う結果が出たそうだ。

 

そうか。うちの猫もちゃんと聞き分けていたんだな。

なんか、ますます愛おしくなってきた。

 

ちなみにうちの猫は機嫌の良い時に名前を呼んだら

「うるるるるにゃぁ~」

と思いっきり返事をしてくれる。

めちゃかわいい~。

いい歳して親バカだな…。

 

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プログラミング学習楽しい!HTML & CSSの上級編まで終了

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先週から始めたプログラムの勉強。

中年過ぎたおっさんの頭ではなかなか難しいかと覚悟していたが、アフィリエイトwordpressを触っていたおかげもあって順調に進んでいる。

いや、むしろプログラムの勉強が楽しい。

 

勉強って学生の頃は辛さしかなかったのに何この違いは。

英語の時もそうだ。

40過ぎてから英語を身に付けたくて自ら勉強し始めたら全然苦じゃなかった。

やっぱり「好きこそものの上手なれ」なんだとつくづく感じる。

途中サボってしまっているので、英語はまだまだだけど。

 

プログラムも若い頃に勉強しようと思って本を読んだことがある。

この時は自ら行動したので苦ではなかったが、何から勉強したらいいいかよくわからなかったし、本を読んでもよく理解できず結局やめてしまった。

 

今回これだけ楽しく勉強できるのはプログラミング学習サイトのProgateのおかげもあるだろう。

prog-8.com

まあ、分かりやすく作ってある。

こんなおっさんでも、カリキュラム通りにやっていたら自然に身についていく。

しかも、飽きないように、そして楽しく勉強できるように工夫がされていて素晴らしい。

 

やり始めてまだ1週間も経たないけど、HTML & CSSの上級コース編まで終了した。

 

同年代でプログラムを勉強したいけど難しそうで躊躇していた人、Progateはおすすめだよ。

この前見たYouTubeホリエモンも勧めていたから間違いないと思う。

上のリンクはアフィじゃないから心配なく。興味あったら一度覗いてみたら。

 

それにしても最近の若い人は羨ましい。

 

Progateはほんの一部の例だ。

 

ネットの普及した時代、プログラムに限らず、容易にいろんな知識や技術を勉強できる環境に、今の若い人に嫉妬してしまう。

 

昔の勉強の苦労を、今の環境で同じだけ頑張ったら、中年すぎでも結構ものにできると思う。

最近、スポーツでも勉強でも若い人にびっくりするような才能を持った人が目立つのは、科学的なデータ分析やそれを活用するためのIT環境が、能力を最大限に引き出す原動力になっているのだろう。

 

もう少し遅く生まれていたら、もっと能力の高い人間になれていたかもしれないと思おうとちょっとくやしい。

 

若い人に今から追いつくのはきびしいけど、どんどん吸収して自分でプログラムを組めるようになりたい。

今日からはJavascriptコースに挑戦中。

継続してなんとか物にできるようにがんばろう。

日本の労働生産性の低さは幕の内弁当的労働が原因

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これまでアベノミクスで好景気が続いていると言っていたのがまやかしで、日本はどんどん貧しくなっていることが明らかになってきている。

出生率の低下による高齢化社会が進むとますますひどいことになりそうだが、それに輪をかけてマイナスの原因になっているのが、最近よく言われる日本の労働生産性の低さだろう。

www.jpc-net.jp

最初、”日本の労働生産性は先進国で最低レベル”というのを聞いて、

「勤勉で能力も高い日本なのになぜ?」

と疑問だった。

日本人は残業してまで長時間労働していて効率が悪い、定時に終われるよう効率良く働くべきという話もあるが、それで説明できる労働生産性の低さではないだろう。

いろんな要因があるとしても、もっともウエイトを占めるのは何だろう?

 

原因は給料が安いこと?

日本の労働生産性の低さは賃金が低いからだと専門家の人は言う。

だけど小さいながらも自営してきた経験からすると、そう単純なものではない。

 

人件費が高くなれば経営を圧迫するので、顧客に対する価格や料金が上がってしまう。

同じ商品やサービスなら顧客の購買意欲は下がってしまうから、かえって売上が落ちてしまう。

そしたら、結局、人件費を下げないといけなくなるが、最低賃金より下げられないので、いま問題になっているコンビニ経営のように人員を減らして一人ひとりの負担を増やすしかなくなる。

労働時間や仕事量が増えて労働生産性はあがらない。

 

うちのような零細では、こんな悪循環になるのが落ちだ。

 

大きな会社なら可能なのかもしれないが、結局、人件費が増えれば、その分昇給を抑えられて労働者の生活に余裕は生まれない。

たとえ最低賃金を底上げして一時的に給料が増えたとしても、物価も上がって財布のひもはゆるまないだろう。

 

高い給料や高い価格に納得しない雇用者・消費者

労働生産性の低い日本は、一体何が他の国と違うのだろう?

日本人の労働の品質が悪いわけではない。

効率が悪いという面はあるかもしれないが、徹底的に効率化されたフランチャイズのコンビニや飲食でも低賃金じゃないと成り立たないじゃないか。

 

 雇用する側の人間(僕もそうだった)は従業員に今より給料を払いたくない。

消費者は商品やサービスに今よりお金を出したくない。

 

今の賃金・価格が妥当だと思っているから納得できないのだ。

 

サービスにお金を払うことがなじまない

日本人の労働の質や商品の質は高いのになぜ納得できないのだろう。

普通に考えて、質が高いのだったらそれ相応に賃金や料金が上がってしかるべきだ。

 

 よくよく考えれば、日本人の労働の質を高めているのは仕事内容に無料のサービスが含まれているからだろう。

 

サービス残業や休日出勤、仕事を家に持ち帰る、なんてことだけじゃない。

B to BやB to Cに関係なく、本来の仕事以外に無料のサービスが求められる。

24時間営業、接待、時間外の対応、丁寧な対応。

日本の接客が”おもてなし”として讃えられて、インバウンドの増加につながっているのも従業員が提供している無償のサービスだ。

 

日本ではこれらのサービスに料金が発生することはない。

ホテルやレストランのサービス料くらいがせいぜいじゃないか?

 

好きでアメリカのドラマをよく観るが、向こうでは庶民が行くような小売店や飲食店では先に挙げたようなサービスはほとんどない。

小売は物を売るだけだし、飲食は料理を提供するだけ。

それでいてチップとしてサービス料を要求される。

日本のようなサービスが加えられたら、当然のようにその分の料金が加算されるだろう。

 

日本では風潮として、店のランクに関わらずサービス受けるのが当たり前で、わざわざ料金を支払うことはなじまないのだ。

このことはB to Bの分野でも似たようなものじゃないか。

 

根底にあるのは「お客様は神様」「スマイル0円」の文化

 こんな日本の風潮は古くは三波春夫が「お客様は神様」と歌った頃からか?

それ以前のことは知らないが、安保闘争やデモ、メーデーが活発だったような一般市民が不満をはっきり物言える時代に、そんな風潮はなかったんじゃないか。

 

時代が過ぎて、マクドナルドの「スマイル0円」がサービスは無料である風潮に拍車をかけたんじゃないかと思う。

 

今どき、スマイルは有料であるべきなのかもしれない。

 

笑顔や優しい言葉でお客を心地よくさせるスキルのあるスタッフを見つけたり育てるのはコストがかかるのだ。

 

キャバ嬢にホイホイされて気持ちよくなることには大金を払うのだから、いいサービスの店員に担当してもらいたいのなら余分な料金を払うことを受け入れるべきだろう。

 

日本で労働に期待されるのは幕の内弁当

 現時点では、日本では労働に対して対価以上のサービスが要求される。

外国の労働と比べたら、単品料理と幕の内弁当のようなものだ。

 

幕の内弁当はごはんとメインらしきおかずがあって、そこに加えてふりかけ、箸休め、サブのおかずなど様々な料理(サービス)が詰め合わせられている。

 

一方、外国は単品料理なのでその一皿が対価のすべて。

追加の料理(サービス)を頼めば、料金はどんどん加算されていく。

 

そんな感じだ。それでいて幕の内弁当と単品料理が同じ値段。

 

日本では本来、料金が発生して、世の中を巡るお金の流れを生むはずのサービスが、無料で提供されて一切お金の流れを生まない。

そんなサービス分の金額が差し引かれているのだから、日本の労働生産性が低いのは当然だろう。

 

専従性を尊重する社会にならないといけない

 日本では厳しい社会で生き残っていくためには、その道のエキスパートとなってオンリーワンにならないといけないとよく言われる。

だけど、本当のオンリーワンになれるのは限られた分野と限られた人や会社だけだ。

 

ほとんどは真似されてすぐに差がなくなる。

そこで、タダでサービスするのが当たり前の風潮の日本では、ライバルとの差別化のため容易に本業以外の部分でサービスを増やすことが行われる。

それに負けじとライバルがさらにサービスをしだす。消耗戦だ。

 

専門性のある職種でも同じような構図に変わりない。

 

本当に日本の労働生産性を上げるのなら、エキスパート(専門家だけでなく、単純作業を含めたあらゆる職業のエキスパート)が本来の仕事に専従できる社会に変わっていかないとだめだろう。

 

例えば、教えることのエキスパートである教師は授業で子どもに勉強や社会性を身につけさせることに専念すべきで、メンタルに問題のある生徒がいれば、エキスパートの心理カウンセラーが対応すべきだ。

暴力的な生徒やモンペがいればエキスパートの警備員や警察が対応すべきだろう。

 

飲食や小売などの接客業でも同じで、サービスを要求する人は高級な店に行けばいいんだ。

普通の店で、必要以上にサービスを要求するようなクレイマーのような輩は、やはり警備員や警察が対応すべきだろう。

 

上は極端な例だけど、日本人は多かれ少なかれ本業以外のサービスにコストを奪われて労働生産性が下がってしまっている。

だから、本来の仕事以外をしなくていい専従性を尊重する社会になっていくべきじゃないかと思った次第である。

 

経済のことはズブの素人だけど、二十数年自営業をしていて感じることだ。

普段こんな事考えないけど、書いたらなんかスッキリした。