人間はみんな多重人格

 

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今日は人の内面のことを書いてみよう。

 

範疇としたらスピリチュアルに分類されるんだけど、スピリチュアルというのはあまりすきではない。

いいものもたくさんあるんだけど、一方で胡散臭い輩がたくさん混じっているんでね。

 

まあそれはさておき、精神障害の一つに多重人格というのがあるのを知っていると思う。

でも本来は人間は誰もが多重人格を持っていてるという話。

 

よくあるのが犯罪者の二面性

TVで犯罪のニュースがあると、犯人の近所の人や知人のインタビューがよく流れる。

たいてい

「優しそうな人だった」

「愛想よく挨拶していた」

などと言って、凶悪な犯罪を犯すような人には見えなかったという。

でも、凶悪犯罪をした人と近所から評判の良かった人は同一人物。

 

最近の話題ならピエール瀧の例が同じようなこと。

周囲の人はみんな口を揃えたようにピエール瀧のことを素晴らしい人格者だという。

(コカイン吸ったからといってそこまで悪いことだとは思わないけどね。)

この場合も罪とわかっていても薬物に手を出すピエール瀧と周りの誰からも好かれるピエール瀧は同一人物だ。

 

これらは分かりやすいが一人の人の中に2種類の人格があるという意味で多重人格だ。

 

普通の人だって多重人格

犯罪者は悪いことをする特殊な人間だから多重人格を持っているんだと考えることもできる。

だけど犯罪を犯さない普通の人だって多重人格を持っている。

 

簡単な例で言えば、ほとんどの人は家での顔と外での顔の二面性を持っているだろ。

これだって立派な多重人格。

 

さらに言えば、人格の数はもっとたくさんあって、2人なんてことはまずない。

 

例えば外向きの顔だって、仲のいいAさんに見せている顔と、生理的に合わないBさんに見せている顔は違う。

 

まあ、いい大人だったらその辺はあからさまにしないが、Bさんに対して表面を取り繕っていることが、Aさんといる時と別の人格である証拠だ。

 

意識的無意識的はあるが人をいろんな属性に分けてしまっている人ほど多数の人格を持っている。

 

精神疾患の多重人格とは出るタイミングの違い

精神疾患の多重人格は色んな人が次々に出てくるもので、ぜんぜん違うじゃないかと言うかもしれない。

でも、それはタイミングが狂っているだけ。

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それを模式図にしたのが上の画像。

普通の人は、相手の属性に合わせて出てくる人格が入れ替わる。

それに対して精神疾患の多重人格では、本来のタイミングでないところで人格が切り替わり、結果、相手が誰であれ所構わず出てくる。

統合失調症の人が妄想と現実が区別つかなくなると似ている。

 

でも、精神疾患の多重人格では各人格がそれぞれの存在に気づいていなかったりするじゃないか?と言うかもしれない。

 

じゃあ普通の人は複数の人格を持っていることにどれだけの人が気づいているんだろう。

 

だれもが知らず知らずのうちに多重人格になっているのだ。

誰に対しても分け隔てない人でも人格は2つある

世の中には誰に対しても分け隔てなく接する、”とても良くできた人”は確かにいる。

 

誰からも好かれてとても2面性なんてなさそう。

 

だけどそんな人でも最低でも2つの人格を持つ。

 

一つは”とても良くできた人”の顔。

もう一つは自分だけに見せる顔だ。

 

人間はあらゆる資質を持っているもので、悪人だっていい人の面もあるし、とても良くできた人だって悪人の芽のようなものはある。

 

素晴らしく良くできた人は何というか”良心”で人格を覆ってしまっているようなもので、他人からしたら誰にも平等に対応してくれる優しい良い人。

 

だけど自分自身は自分にも悪人の芽があることは知っている。

自分に嫌な面があるのは知っているのだ。

あるいは見ないふり知らないふりをしているかも。

 

ただしそういう人は、善と悪では善の比率が圧倒的に高い。 

人間的に進歩した人であることは間違いない。

多重人格でない人もいるにはいる

じゃあ多重人格ではない人はいないのだろうか?

実はそういう人はいるにはいる。

 

いわゆる悟りを開いた人。

 

そういう人は上に書いた人格者の2面性すら落ちてしまっている。

だから善も悪もなくなって只、今があるだけになる。

 

禅の世界では”底が抜けた”なんて言い方をしたりする。

 

人格が落ちる(あるいは自我が無くなると言ってもいい)と人間らしさが無くなるような気がするがそんなことはない。

 

そういう人はそれまでの生きてきた癖(もとの人格の癖のようなもの)は残る上、感情の表現にためらいも恥じらいも忖度もないから、表現に躊躇がなく普通の人以上に人間らしい。

 

そして今この瞬間に生き続けているので思い悩むことはなくなり、あるがままに命を輝かせる。

 

もともと座禅も瞑想もヨガもそういう境地を目指すものだ。

 

僕もそういうふうになっていきたいし、本来、みんなそういう方向に向かっている。

ただ、歩みの速度がそれぞれ異なるだけだ。

 

だいぶ人格というお面の数は減ったけれど、まだまだ道のりはつづく。

 

人は成長するにつれて多くの人格(自我)というお面を作り、やがてそのお面を一つ一つ外していくというお話でした。

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